向かいに見えるのは、屋上の手すりに敷布や肌着などを取り込まずまだ干したままの人家、ほほひげが長いユダヤ教徒の老翁が戸の前にたたずむ居酒屋、階段の一つが直に建物の高層まで届き他の階段が地下に住む鍛治屋へと通じる貸家。 私はこの頃物を書くのに、平俗は忌避せぬが、卑俚には甘んぜない。
19あなやと思ひしが、流石に相澤の言を僞なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋らずば、本國をも失ひ、名譽を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。
エリスの生ける屍を抱いて千筋の涙を流したことが何度あったか。
実際、東に向かって戻る今の私は、かつて西に向かって船出した昔の私ではない。
普通なら初対面の旅客に対しても親しく交際し、たがいに旅の暇な辛さをなぐさめあうのが航海の通例であるのに、身体の不調のせいにして船室のうちに閉じ籠もってばかりいて、同行の人たちにも口を利くことが少いわけは、人に知られぬ苦しい思いに心を悩ませていたからだ。
そして、もう一つは森鴎外の『即興詩人』。 これがすなわち日記の書けない由来なのか。
」彼は頭を垂れたり。
一緒に来れるか?」 この数日間、相沢はある公務で忙しく顔も見ていなかったので、この問いがあまりに突然なことで驚いた。
その後豊太郎はエリスと同棲し、生活費を工面するため、新聞社のドイツ駐在通信員という職を得た。
兎角思案する程に、心の誠を顯はして、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。
この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。
この恨みは初めは一抹の雲のように心をかすめ、そのせいで、スイスの山景色が目に入らず、イタリアの遺跡に心をとどめもしなかった。
」 また少し考えて、 「たとえ富貴におなりになる日があっても、わたくしを見捨て下さいますな。
「お国からの手紙ですか。 だが、二十五才にもなり、この自由な大学の風にもかなり長くあたっていたので、心の中はなんとなく穏やかではなくなり、奥深くに潜むまことの我が次第に表に出てきて、昨日までの自分は自分ではないと攻めるかのようだった。
12このとき戸口で人の声がして、ほどなく台所にいたエリスの母親が郵便の書状を持ってきて渡された。 朝のコーヒーがすむと、彼女はおさらいに行き、ない日には家に留まっていて、 私はキョオニヒ街の間口が狭く奥行きだけたいそう長い休息所に出かけ、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれと材料を集めた。
帰国 石炭の積み込みがもう終わった。
人の目を気にする余裕がないくらい、はかりしれないほど深く悲しい目にあったのだろうか。
危ういのは私の当時の地位であった。
卒業後は入省して故郷の母を東京に呼び寄せて暮らしていましたが、ある日「ドイツへ行って調べものをしろ」と命令を受けました。
私の内ポケットには二、三マルクの銀貨があるが、それでは足りるはずもないので、私は時計をはずして机の上に置いた。
四階の屋根裏には、エリスはまだ起きているらしく、明るい光が一つ星のように、暗い夜空にすかしてはっきり望まれたが、降りしきる鷺の舞うような白い雪片に、被われたかと思えばまた現れて、あたかも吹雪く風に弄ばれているかのように見えた。
彼女はたいへん美しい。
倒れるように、道のほとりの腰掛けに寄りかかり、 焼くように熱く、槌で打たれたように響く頭を、腰掛けの背もたせにもたせ掛けて、死んだような格好で何時間を過ごしたことだろうか。 また、大学では、法律の講義をおろそかにして、歴史・文学に興味を持ち面白味がわかり始めていた。 あなたはきっと良い方なのでしょう。
詳しくここに記すことも必要はないのだが、私が彼女を愛する心のとたんに強くなって、ついに離れることのできない仲となったのはこの頃だった。 四階の屋根裏には、エリスはまだ寝ていないとみえて、光り輝く一つの火が暗い空に明るく見えた。
伯が君と会ってみたいとのことなので、早く来てくれ。
私を救ってください、あなた。
これを登って、四階に、腰をかがめてくぐらねばならない程度のドアがある。
彼等の仲間には獨逸新聞の社説をだに善くはえ讀まぬがあるに。
ここまで連れてきた心のなさを。
胸を張り肩を高くした士官が、まだウィルヘルム一世が窓から街を眺めておられた頃なので、さまざまな色の飾りをした礼装をしていた。
この瞳。
父が亡くなり、明日は葬儀だというのに、家には少しのお金もありません」 あとは、すすり泣く声だけがした。
エリスは二、三日前の夜、舞台で倒れたというので、人に助けられて帰ってきたが、それから気分が悪いといって休み、ものを食べては吐くのを、悪阻というものだろうと初めて気づいたのは母だった。 画ニメ「舞姫」 - 、から発売された。 太田豊太郎 -• 彼女は思いがけない深い嘆きに遭って、前後を顧みる余裕もなく、ここに立って泣いているのだろうか。
16私が出発した日には、普段とは違って一人で灯火に向かうことのわびしさに、知人のところで夜になるまで話をし、疲れを感じて家に帰り、直ぐに眠った。
激しい寒さが骨にしみとおるように感じて我に返ったときは、もう夜に入って、雪が盛んに降りしきり、帽子の庇にも外套の肩にも、雪は一寸ほども積もっていた。
そのせいで、無実の罪を負い、短い間に、はかりしれない苦しみを味わい尽すこととなった。
我鏡に向きて見玉へ。